移住1年目Started local life
移り住んで見えた
新しい世界
自然が奏でる音楽が聞こえてくる
連なる山々の深い緑、朝焼けや夕焼けの色
木漏れ日がつくる光のダンス
鳥はさえずり、風にそよぐ花
ほんの小さな勇気がもたらしたものは、
他の誰でもない、自分だけの人生だった
毎週水曜日は、朗らかな先生のもとで、国東地方特産の七島藺(しちとうい)の工芸品を手習いしている。
部屋に入った瞬間、まるで草原に咲いた白い花のような、柔らかな笑顔で迎え入れてくれた青木さん。毎週通っているという、国東地方特産の七島藺(しちとうい)の工芸教室で、手先を器用に動かしながら、先生とにぎやかにやりとりをしている。
国東で育てられる植物の七島藺は、い草の5~6倍の強度があり、耐久性に優れている。教室では一つ一つを手編みで制作。
笑顔が素敵ですねと声をかけると、照れ臭そうに「これでも東京では、ドライな人だと思われていたんですよ」と肩をすくめた。移住して約1年。青木さんは、杵築市の地域おこし協力隊として働いている。
青木さんお気に入りのカフェ『まめのもんや』オーナーの菅さんとは同じ移住者同士、暮らしや家庭のことなど話がはずむ。
東京で働いていたある日、30歳を手前にして、不意に不安が訪れた。仕事にはやり甲斐を感じる。けれども暮らしは、自分が求めている内容だろうか。足早にすぎる毎日の中で、田んぼに囲まれて暮らした、小さな頃の記憶が蘇る。結果、辞職届を会社に提出。そして退職の翌日に、恋人の薦めで国東半島の付け根にある小さな町・杵築市山香町の農家民泊『糧の家』を訪れる。それが、青木さんにとっての転機となる。
豆で作ったお菓子が得意な『まめのもんや』さんの、素材のやさしい甘みの手作り小豆のジェラート。
サスティナブルな生活がある
築80年の古民家を改築した空間は、大きな木のテーブルにレンガの暖炉、そして『カテリーナ古楽器研究所』で作られる、木彫りの楽器がぐるりと部屋を囲み、和やかな空気が流れる。周囲は、森と畑に囲まれ、朝は鳥の声、夜は静寂のベールで包まれる。青木さんは『糧の家』を通じて、山香町の暮らしにどんどん惹かれていった。
手作りの調味料やお菓子、国東半島で焙煎されたコーヒーなど、地元の食材や手作り品であふれている。
「初めて訪れた新緑の時期。地元のひとが集まり大きな柿の木の下で食事をした際、木漏れ日の中で、柿の葉や野草を採り、その場で料理する姿がありました。自分で買ってきたものでも、育てたものでもない、自然の中にある恵みを、自分の知識で見分けて暮らしていく。そのときの光景が逞しく、また、とても満たされたものに見えたんです」
国東半島の付け根にある山香町にある、農家民泊『糧の家』との出会いが運命を変えた。
海外も、国内も巡った。だからこそ、自分の求めていた場所はここだと、青木さんはその瞬間、確信した。
そこからの行動は早かった。地域おこし協力隊に応募し、半年以内には杵築暮らしを手に入れた。今は業務の空き家バンク運営をしながら、暮らしを楽しみ、七島藺の伝統工芸品づくりを手習いする日々だ。
自給自足で暮らす松本さん家族が営む、地域のものと古いものが大事に使われる豊かな糧の家の台所。
「詳しい地理も知らずに移り住んだので、来てから初めて海や空港が近いことを知って感動しています。杵築のことは何も知らなかったけれど、不思議と、あそこに行けばなんとかなる、という自信だけはありました。それだけ『糧の家』で過ごした時間が、背中を押してくれたんです」
人口3万人規模で、皆が知り合いのような感覚。自然と互いの家に集まり、他愛もない話に花を咲かせる。野菜はもちろん、手作りのすてきな洋服をプレゼントされたことも。
糧の家を運営する松本夫妻。古楽器を作りながら自給自足の生活を営む松本さん(左)は10歳の時に東京から家族で移住した。
自作の楽器で歌をうたい、日が暮れるのを楽しむ。そんな豊かな暮らしに溶けこんだ今、青木さんは農家民泊という新しい夢を見はじめた。「ここなら、大丈夫。言葉で伝えたら、皆で助けあっていける」青木さんが得たものは、心が満たされる暮らしと、ひとを信じて生きる喜びそのものだった。
移住してもうすぐ1年。青木さんの笑顔は、これからも多くのひとに支えられながら、ますます輝きに満ち溢れていくのだろう。
畑で取れたかぼちゃに、山の恵みのかぼす。丁寧な暮らしの先にはお金にとらわれない本当の価値がある。
行動は自分だけの情報になる
移住の秘訣は?と青木さんに伺うとはっきりとこう答えた。「情報を集めすぎないことも、時には大事だと思うんですよね。私の場合は、山香町に住むことを一番に考えて、交通や買い物の便は二の次でした。何が最優先なのか的を絞ることで、その分スピード感をもって行動できると思うんです」。青木さん自身、最初の山香町滞在から東京に帰った後に、まずは住まいをと、ネットや知り合いづてで空き家を探すが、なかなか理想の家が見つからなかった。それならばと、まずは地域おこし協力隊になり、仕事をしながら将来住む家をじっくり探そうと応募を決めた。家のことよりも、山香に住むことが第一目的だったので、タイミングよく人材募集に乗じることができたのだ。
糧の家のオーナー、松本さんは農家民泊のかたわら楽器をつくり、不定期に演奏会なども開催。いつも多くのファンが山香に訪れる。
「移住前に、地元で数名のひとたちが受け入れてくれていた安心感もありますが、何より覚悟が大きかったんだと思います。迷いがあればまずは動いてみてほしいですね。その結果、その暮らしがあう、あわないと判断してみてもいいと思いますし、果たして自分が求めていることが移住をすることで満たされるのかどうかも検証していいと思います。人生の選択肢は多様にある。けれどそれは何より、行動してわかることではないでしょうか」
楽器工房。地元の木材を削って作った楽器たちが奏でるハーモニーに、青木さんも一瞬で心を奪われ、ここでの暮らしを決意した。
情報を集めてあれこれ考えるよりも、何事も小さい行動の積み重ね。まずは気になる地域に観光で尋ねたり、宿泊を通じて地元のひとたちと触れ合ったりしてみながら、一歩一歩、自分にあう暮らしを見つめてみてもいいのかもしれない。
楽しいことも大変なこともすべてが良い経験になる。そう思えるのは、周りの意見にとらわれず、みずから暮らしかたを選択しているから。自分で決めた道は、すべてが人生の糧になる。
移住した人Local Person
青木 奈々絵さん
栃木県出身/Iターン/地域おこし協力隊
東京で旅行代理店の営業や国際協力団体の運営サポートなどを経験。旅行で杵築市山香町に訪れたことをきっかけに翌年の2019年1月、杵築市の地域おこし協力隊として移住。現在は、空き家バンクの運営や情報発信を通じて地域活性を目指す。